鉄血勤皇隊



1944年12月、
沖縄第32守備軍司令部は、
県当局と県内の中等学校の生徒たちを戦力化することについて協議した。
米軍の沖縄上陸に備えて、
防衛力を増強するために県下の全中等学校の職員と生徒を軍人、
軍属として動員する計画をたてたのである。

沖縄には私立の学校や実業学校を含め男子の中等学校が11校あった。
沖縄師範学校男子部、
県立第1中学校、
同第2中学校、
同第3中学校、
同工業学校、
同水産学校、
同農林学校、
同八重山中学校、
同宮古中学校、
私立開南中学校および那覇私立商業学校である。
これらの諸学校生徒たちは、
時局が戦時体制へ移行するにともない軍に動員され、
飛行場建設や地下壕陣地の構築作業等に従事していた。

1945年3月、
米軍の沖縄上陸が必至の状況になると、
守備軍の命令により「鉄血勤皇隊」の名で、
今度は戦闘隊員として徴用された。
「鉄血勤皇隊」とは、
県下の師範学校や男子中学生の生徒たちによって組織された学徒隊の総称で、
別名健児隊ともいわれた。
最年少は現在の中学生の2年生から、
最年長が師範本科3年、
つまり現在の大学2年生にあたる。
すなわち96%が未成年で、
これは女子学徒陣(ひめゆり部隊など)も同様である。
ちなみに守備軍に動員された日時や動員数は、
それぞれの学校によって異なっていた。
たとえば宮古中学校は動員されずにすんだし、
県立八重山中学校のようにわずか20人だけの動員の学校もあった。

動員された生徒たちは守備軍配下舞台に配属され戦場へ出た。
あらゆる戦闘任務を兵隊同様に果たした。
銃の操作を知らない下級生までが、
速成で戦車攻撃の方法を仕込まれて第一線に投入されたのである。

従軍した男子学徒兵1780人のうち、
半数の890人が戦死した。
中でも県立工業学校の場合、
動員された生徒94人中、
85人が死んだ。
第2中学校では143人中127人が死んだ。

戦線には、
本部に16名、
野戦築城隊243名、
切込み隊57名、
千早隊(情報宣伝)22名、特編隊48名である。
野戦築城隊が多くが下級生であった。
この築城隊のうち20数人は、
首里に危機がせまると、
急造の爆雷をかかえて戦車に体当たりするなどしてほとんど全滅した。
千早隊や切込み隊は司令部と行動を共にした。
戦後、
生き残った生徒たちにより、
戦死した学友を悼み、
各学校ごとに「健児之塔」が建立された。

女子学徒隊については、
ひめゆり部隊が有名だが、
これは沖縄師範学校女子部、
県立第1高等女学校の生徒による部隊で、
動員数合計297名のうち、
戦死者は210名であった。

女子学徒はこの他、
白梅隊(県立第2高等女学校)67名中36人死亡、
名護蘭隊(県立第3高等女学校)10名中1名死亡、
積徳隊(私立積徳高等女学校)55名中28名死亡、
瑞泉隊(県立首里高等女学校)83名中50名死亡、
でいご隊(私立昭和高等女学校)80名中31名死亡した。
鉄血勤皇隊含む男女合計では、
2440名動員されて1298名が死亡した。
戦死者の中には自決したものもいる。

映画でも紹介されているが、
女子部隊は傷病兵の看護や壕掘り作業が中心である。
5月の沖縄は暑くすぐウジがわく。
負傷兵のうみとウジにまみれた包帯の交換、
汚物の処理、食事の準備、食料調達、死体埋葬などを行った。
前線の野戦病院であるため、
戦況により移動しなければならず、
移動途中で死亡したり、
また捕虜になることを恐れて自決した。
第3外科壕では、
脱出直前にガス弾による攻撃をうけ、
40人の職員や生徒が死亡した。
この第3外科壕跡に、
ひめゆりの塔が建立されたのである。

ひめゆり部隊も気の毒であるが、
わずか14、5歳の男子が、
爆雷を抱えて戦車に向かった鉄血勤皇隊の幼い顔を思い浮かべると、
同じ年頃の子どもを持つ身では涙を誘う。
ちなみに沖縄上陸軍の兵力はのべ54万8千人。
当時の沖縄の総人口は45万人。
守備隊は10万人。
また地元徴用した学徒含む隊員が約1万人。
総勢11万人の数でその4倍強の米軍45万人と戦ったのである。
兵器の数などは比較にもならない。
死亡者数は、日本側256,656人。うち正規軍は65,908人。
沖縄県出身者死亡数総計178,228名。
島内人口の約40%の殺戮は、
数こそ少ないとはいえ、
アウシュビッツの悲劇とならぶジェノサイド(皆殺し)作戦と呼ぶべきであろう。
なお米軍の死亡者数は、12,520人だった。





引用:大田昌秀『沖縄戦とはなにか』久米書房



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